~中動態の世界~
- 聡 和泉
- 7月4日
- 読了時間: 2分
能動態、受動態ときくと、中学校時代、英語の文法の授業で習った、動詞の過去分詞を使った書き換えのことを思い出します。実はもうひとつ『中動態』というのがあった(今もある)ということを、最近、雑誌を読んで知り『中動態の世界〜意志と責任の考古学』(國分功一郎、医学書院)を読みました。
國分さんは哲学者であり、本の中身はかなり難解なのですが、私なりに理解したところを端的に言うと、「人の営みは、何かをした、された、という能動態、受動態で表現される単純なものではなく、何かをしたわけではない、されたわけでもないのに、いつの間にか、ある事態が起きている。そういう側面があり、それは中動態という概念を使って考えると理解しやすい」というものです。
人は人生の過程でさまざまな選択をし、人と出会い、偶然を繰り返したりしながら生きていくわけですが、人の選択や意図、意志を超えた力が見えないところで働いて事態ができあがっていく。例えば、なぜ今の仕事に就いたのか、なぜ今の相手と結婚し家族になったのか。それは『そうしたかったから』ということ以上に、気づいたらそうなっていたと表現した方が正しく、その連続が人生だということを中動態は言っているのです。
それは『天命』と言い換えていいのかもしれません。そんなことを考えながら、『孟子・下〜中国古典選9』(金谷治、朝日新聞社)を読んでいたら、128章に「為すなくして為るものは天。求めずして至るものは命」という言葉を見つけました。ことさら何もしなくてもそうなる、それが天。求めないのにそのようなめぐりあわせになる、それが命。
人々の営みのそうした本質と向き合わないでいると、市が立てる施策も的外れになっていく、気を付けなければなあ、と考えたのでした。
(広報 あしかがみ 2020.9)

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