~死の自己決定は可能か~
- 聡 和泉
- 7月4日
- 読了時間: 2分
今春の東大入学式で述べた祝辞が話題になった社会学者の上野千鶴子さんが、文芸春秋で終末期や死にまつわる連載を書いています。5月号は『死の自己決定は可能か』でした 。
東京の福生病院であった透析中止事件を紹介しつつ、上野さんが展開した議論の結論は「死ぬことに自己決定があると思うのは、傲慢だ」でした。特に警鐘を鳴らしたのは、リビングウイルなどで、延命治療は望まないと、健康なうちに意思表示しておくことが、あたかも当たり前のようになっている今の社会の風潮でした。
私は最近、親族を末期がんで亡くし、不必要と思われる治療はしない形で最期を看取りました。記者時代、延命治療のもつ陰の部分を集中的に取材した経験もあっただけに、上野さんの議論は新鮮で、衝撃的でした。
中でも印象的だったのは、上野さんが医師だったご自身の父を末期のがんで亡くした経験を記した部分でした。父は「一日も早く死なせてくれ」と言ったかと思えば、回復の見込みがないのに「リバビリ病院に転院したい」と言ったりして、家族を振り回したそうです。
そして上野さんはこう書きました。「死にゆく人は、気持ちが変わる、揺らぐ、ジェットコースターのようにアップダウンする。その揺らぎにつきあって翻弄されるのが、家族の役目だと。父の看取り経験から、わたしは健康な時に書いた日付入りの意思など信じるな、と思うようになった。また、いったん決めたことを最期まで貫くことを、尊いこととも思わなくなった」。
人間の感情や行動はいつも矛盾に満ち絶えず揺れ動く。大切なのは、正論を大上段に振りかざすのではなく、こうした矛盾や複雑さにいつも思いをはせることではないか、と少し前、この欄で書いたことを思い出したのでした。
(広報 あしかがみ 2019.7)

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