~伝わる、とは~
- 聡 和泉
- 6月28日
- 読了時間: 2分
更新日:7月4日
市長になって4年2カ月。正確に数えたことはないのですが、毎日平均5件として、7500回ぐらい挨拶をさせていただく機会がありました。その都度、相手に『伝わる』とはどういうことか、と思い続けてきました。そんな『問い』をいつも胸に論語を読み続けていると、随所に答えの手掛かりになる言葉があることに最近気づいたのです。
『之れを為すこと難し、之れを言いて訒(じん)する無きを得ん乎』(いうのはやさしいが、実行はむつかしい。しからばものをいうとき、口ごもらずにいられようか)=顔淵。『巧言は徳を乱る』(口先の巧みな言葉は、徳を乱すだけだ)=衛霊公。『便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり』(いやなことを避けたがる便宜主義者、人ざわりがよいだけの人間、口先だけの便宜主義者、これを友としては損だ)=季氏。『焉(な)んぞ佞(ねい)を用いん。人を禦(ふせ)ぐに口給を以ってし、屡(しば)しば人に憎まる』(弁舌が何の役に立つのか。口給、すなわち口先の機転で人を禦ぎ、つまり便宜的に一時的に人をごまかし、そのために人から憎まれるだけだ)=公冶長。(以上、朝日新聞社の中国古典選3〜5、論語、吉川幸次郎)
佞という言葉は何度も論語に登場します。口先だけが上手なことをいかに孔子が嫌っていたかがよくわかります。
スラスラと澱みなく話した人の講演は、何も印象に残らなかった一方、つっかえつっかえで、たどたどしい講演だったけど、なんだか熱い思いが伝わってきた――そんな経験はだれもが持っているのではないでしょうか。
そう。伝わるとは、結局、美辞麗句をスラスラ並べることではなく、肝心なのは、伝えたい熱い思いがその人にあるのか。それさえあれば、つっかえつっかえでも、相手に伝わるのではないか。そんなひとつの考えに、たどり着いたのでした。
(広報 あしかがみ 2017.8)

コメント